西宮競輪 廃止
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西宮競輪が廃止した理由は、地元の人に反対!嫌われた公営ギャンブルの末路

UPDATE:2020.08.31
競輪コラム競輪マメ知識

現在全国43カ所にある競輪場。そのなかでも廃止に追い込まれた、西宮競輪という競輪場を知っていますか?

昔から競輪を楽しんでいる方であれば「なつかしい」と思うかもしれませんが、その存在すら知らないという方が多いかもしれません。

現在は廃止され商業施設になっていますが、過去には野球と競輪を同時に行っていたような珍しい競輪場でした。

当時、西宮競輪場が廃止になったのは非常に深い理由があります。当記事では西宮競輪場はどのような競輪場だったのか、なぜ廃止になってしまったのか、また現在はどうなっているのかを紹介していきます。

西宮競輪場とはもともと野球場だった!

西宮競輪 廃止 野球場
西宮競輪場はもともと競輪場としてではなく、野球場として設立されました。当初は「阪急ブレーブス」という野球チームの本拠地「西宮球場」として作られましたが、人気もなく有名でない球団だったため、売上の低迷に悩んでいました。

そこで、西宮球場の人気の低迷を打破させるために、球場の構造を作り変えて野球と競輪を同時に行える場所へと工事しました。バンクの周長は300mと、小さな競輪場でしたが、工事完了後に初めて行った第一回西宮競輪では、予想を遥かに上回る集客に成功したのです。

野球と競輪を両立していたため、競輪開催前には木製のパネルを張り合わせてバンクを作り、開催が終わると解体していましたが、阪急ブレーブスの本拠地が移転されたためその作業もなくなりました。

しかし当時は、木製のパネルを組み合わせただけのバンクだったため、アスファルトの路面と異なり、振動が激しく走りにくいと選手からは不評でした。また少し落車しただけでも、木製パネルの破片などが刺さって怪我につながることも少なくなかったようです。

廃止に追い込んだ西宮競輪の歴史

西宮競輪 廃止 歴史

競輪と野球を両立させる珍しい形で運営されていた西宮競輪場ですが、なぜ廃止に追い込まれてしまったのでしょうか?

廃止になった西宮競輪場の歴史を簡単にご紹介していきます。

2013年10月26日のレースで廃止となった

西宮競輪場は開催から63年経過した2013年10月26日に開催された記念競輪「開場63周年記念・G3毛織王冠争奪戦」で長い歴史に幕を閉じました。

当時はKEIRINグランプリのような高額な賞金のレースがなかったため、記念競輪はレースのなかでも賞金額が高く、実力のある選手があつまるビッグイベントでした。

そして廃止となった一番の理由は、車券の売上減少によるものです。西宮競輪ももちろん売上の低迷に悩まされていましたが、西宮競輪だけではなく、多くの競輪場で売上の低迷があり、廃止する競輪場が跡を絶ちませんでした。

西宮競輪場もまた、売り上げ低迷の打開策が出ることもなく、一宮市長によって廃止することが発表されたのです。

現在では43カ所ある競輪場ですが、当時は全国で50カ所もあり、その廃止となった競輪場のひとつ西宮競輪場です。

また西宮競輪場は上記でもお話した通り、レース開催前に木製のパネルを組み立ててバンクを作る形で、その組立にかかる費用はおよそ700万円ともいわれており、これがさらに廃止へと追い込んだ理由ともいわれています。

しかし当時の西宮競輪場は、多くの競輪ファンから愛され「東の川崎」「西の西宮」と呼ばれるほど、利用者が多くプロ野球の公式戦を超えるほどの入場数だったそうです。

西宮競輪の廃止の本当の理由は?

西宮競輪 廃止の理由

かつては「西の西宮」と呼ばれるほど入場者数が多く、競輪ファンから支持されていた競輪場がなぜ廃止へと追い込まれてしまったのでしょうか。

廃止を回避する打開策としてナイター競輪の開催も考えられていましたが、実現することもなく廃止となった話もあります。

もちろん売上の低迷も理由のひとつですが、近隣の住民からの反対の声が多かったという話も聞きます。

当時の競輪は現代の競輪と比べて、お世辞にも上品なものではなかったため、「ギャンブルを近くで開催しないでほしい」というような住民の声を受け入れた結果かもしれませんね。

西宮競輪はなぜ差別されたのか

西宮競輪 廃止 差別

上記でもお話した通り、なぜ住民から差別されてしまったのでしょうか?

その理由は1950年に甲子園競輪場で起きた事件が関係しています。この事件では、甲子園競輪場の投票所に消防車から抜きとったガソリンを使って放火した事件です。

さらに、この火災が起きている間に売上金を盗もうとする人に対して警察官が撃った銃があたってしまい死亡者がでてしまったような悲惨な事件でした。

当時、このような事件が話題になっていたこともあり、「競輪ファンは野蛮」「何をするか分からない」といった悪いイメージばかりが受け付けられてしまったので、このような自体に発展したのかもしれませんね。

今の西宮競輪場はどうなっているの?

西宮競輪 廃止 現在

廃止に追い込まれてしまった西宮競輪場は、現在解体されてしまい商業施設が建設されているので、面影は一切ありません。

この商業施設は「西宮ガーデンズ」という名前ですが、家族連れなどに賑わっており、かつて競輪場だったことも知らない方も少なくないでしょう。しかし、西宮競輪場は競輪の歴史のなかでは忘れてはいけない珍しい競輪場なので、西宮ガーデンズの5階には当時の歴史を振り返られるパネルなどが展示されています。

展示されているパネルのなかには、野球場として賑わっていた頃の写真や競輪場として賑わっていた頃の写真も展示されているので、かつて西宮競輪場に訪れたことのある方も、西宮競輪場がどのような競輪場だったのかを知らない人も競輪の歴史に触れる意味ではよいかもしれません。

西宮競輪を得意とした中野浩一

西宮競輪 廃止 中野浩一

西宮競輪場は木製のパネルを組み立てたバンクだったので、振動が強いなどの理由から多くの競輪選手から嫌がられる競輪場でした。そのため本来の実力を発揮でない選手ばかりでしたが、今や競輪界のレジェンドと呼ばれる「中野浩一」はそんなバンクをもろともしない走りを見せていたのです。

バンクの状態に左右されない技術を持っているのはさすがとしか言えません。

では、中野浩一とはどのような人物だったのでしょうか?以下で簡単にご紹介します。

西宮競輪のバンクももろともしない競輪界のレジェンド中野浩一!

西宮競輪 廃止 どんな人物

今や中野浩一を知らない競輪ファンはいないと言っても過言ではないほど、競輪界を代表する選手でした。

そんな中野浩一はデビュー戦から、18連勝を重ね、勝率・優勝回数も非常に多く圧倒的な存在たったのです。また歴代最多の賞金王にも君臨し、日本のスポーツ選手のなかではじめて1億円を獲得した選手として知られています。

そしてこの強さは高校生のころに取り組んでいた陸上からつながっていったともいわれています。

やはり、このような実力のある選手だからこそ、西宮競輪のような他の選手が嫌がるようなバンクであっても、本来の実力を発揮して戦うことができたのでしょう。

まとめ

西宮競輪 廃止 まとめ

以上、当記事では現在廃止されてしまった西宮競輪の歴史をさかのぼって紹介させていただきました。

最近こそは競輪の売り上げ低迷に歯止めがかかり、人気を取り戻していますが、当時の売上低迷によって多くの競輪場が廃止に追い込まれてしまったのです。

西宮競輪場はそのなかのひとつになってしまいましたが、競輪と野球を両立させる今では考えられないような形式だったのも驚きです。

現在、西宮競輪場の跡地には商業施設が建設されてしまい面影はありませんが、歴史を感じたいのであれば、西宮競輪場の跡地に建設された商業施設「西宮ガーデンズ」の5階のパネル展示をご覧になってみてください。

最近は廃止に追い込まれる競輪場はありませんが、今後の競輪の売上自体に状況によってはどうなるか分かりません。そのため、もっと競輪に興味がある人が増え、競輪場が盛り上がるのを切に願いたいですね。